「おきぐすり」の歴史


「おきぐすり」の発祥

富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒しました。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
正甫公は、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。同時に富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。
源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。
こうして、現在のクレジットとリース制を一緒にしたような「先用後利」の画期的な販売システムが登場したのです。
ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。

奈良・滋賀・佐賀県の「おきぐすり」

一方、奈良県でも「おきぐすり」の歴史は生まれていました。
文武天皇の大宝元年(701年)に大宝律令が制定された時に、併せて医療の制度も発布されました。この制度に従って曲薬寮を設け、薬園師、薬園生などの官が置かれ学生の教育やくすりの研究が行われました。
またこの頃、葛城山で修行し吉野に入って大峰山を開山した役の行者・小角が、木皮(黄柏) のエキスで「陀羅尼助」というくすりを作り、現在も家庭薬として残り、大峰登山者たちにも珍重されています。
奈良朝に入り、天平勝宝5年(753年)、唐の名僧・鑑真が遣唐使とともに来朝し、唐招提寺を開きましたが、その際、「奇効丸」というくすりを伝え、光明皇后の病気を治したという記録が残っています。現在の「六神丸」は、この奇効丸にヒントを得て作られたものだといわれています。
こうした古い歴史をもつ多くのくすりは家庭薬として代々受け継がれてきましたが、富山県の「おきぐすり」に続いて、全国に配置されるようになりました。
滋賀県のくすりの歴史も古く、史実によりと、天智天皇が薬猟をされたという記録が残っています。さらに中世に入ると、織田信長が伊吹山麓に約50町歩の薬草園を開き、ポルトガルの宣教師からもたらされた植物を移植させた記録販売なども残っています。
こうしたことから、滋賀県は古来から医薬原料に恵まれ、京都に隣接しているため、漢方の知識が加わり、くすりの製造販売が行われやすい環境にあったといえます。 滋賀県には甲賀売薬と日野売薬の伝統が残っています。
また、佐賀県でも古くから、「おきぐすり」の販売は行われていました。
長崎にいたオランダ人から膏薬製造の秘法を習得して作られたという「唐人膏」がそのルーツといわれています。

ユニークな商法「先用後利」

富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。宿泊費や交通費も馬鹿になりません。しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。言葉や習慣の違いも当然あります。利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。


●信用三本柱

「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。
「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのです。

「おきぐすり」の移り変わり

江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「おきぐすり」ですが、その歴史は苦難の連続でした。
最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。
医療医薬の近代化を進める政府は、なかなか改革の成果のあがらない「おきぐすり」に対して、次第に懲罰的な厳しい政策をとるようになりました。
明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。 また、開発された有効なくすりは7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善を迫ってきました。
明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補うことと「無害無能で日用の必要品でない売薬が莫大な利益をあげている」との理由で、明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべてのくすりに定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。
この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「おきぐすり」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。
昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。
こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。くすりや医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「おきぐすり」が一役買っています。


●柳行李と懸場帳(得意帳)

「おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、かれらは柳行李の中に、くすりや紙風船などを詰め、全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問するときに必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懸場帳(得意帳)といって代々大切に受け継がれていました。懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。現在では、柳行李がバックに変わり、懸場帳(得意帳)が携帯端末などに代わってきています。


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